月刊「ラバーインダストリー」2002年月7号掲載 フランストサッカー 2006/03/24 Fri 12:02
月刊「ラバーインダストリー」
2002年7月号掲載
連載第2回
フランスとサッカー―トルシエが与えてくれたもの
決勝トーナメント一回戦、日本、トルコに敗退。W杯に燃えた日本の熱い夏が終わった。この原稿を書いている時点で、FIFAワールドカップはベスト8が揃うところまできたが、日本代表の大健闘もあって、W杯が始まってから、仕事に身が入らない日が続いている。自分がこれほどまでサッカーにはまるなんて、ついこの間までまったく考えられなかったことだ。筋金入りのサッカー狂(おじさんながら現役プレーヤー)である同居人に、すっかり感化されてしまったのだ。
TV放映される試合の9割以上はその時間に見ているし、試合もW杯初戦の新潟でのカメルーン対アイルランド戦、鹿島でのイタリア対クロアチア戦と、すでに2度足を運んでいる(あとは決勝!)。このチケット入手も同居人の情熱の賜物だった。同居人は、重症の「サッカー病」患者仲間と情報交換し、1年も前から6試合分のチケットをゲットしていたのだが、それでも足りず、熾烈なチケット争奪戦を少しでも有利に運ぶため、二次販売、三次販売を「車椅子席」で申し込むことを思いついた。どうせ無理だろうとタカをくくっていたら、何と2試合分も当てた!
というわけで車椅子ユーザーの私が「サッカー病」患者を「介助」して初戦の新潟に足を運ぶことになったのだが、スタジアムの興奮と熱気を体験してから、サッカーが本当に面白くなった。その試合では、アフリカ大地を駆け抜ける野生動物のような俊敏さを備えたカメルーンが先制したものの、アイルランドは怯むことなく責め続け引き分けた(その後のドイツ戦、スペイン戦でも、奇跡的な逆転劇を起こしたアイルランドには「感動」賞を贈りたい)。鹿島では、イケメン軍団イタリアの応援団で埋め尽くされたスタジアムを見て、急遽クロアチアの国旗を買い求め応援にまわった。その試合で、クロアチアはイタリアに先制されながら鮮やかな逆転勝利を収めた。
W杯には確かに一つ一つのゲームに胸が熱くなるドラマと人生の教訓がある。絶望的な状況から戦況を覆し、ベスト16入りを果たしたパラグアイのジラベルトには次期大統領候補とも噂される頼もしいリーダーの姿を見た。頑迷なほど基礎作りに重点を置いてきた者の揺ぎない自信を感じさせるドイツ。ずば抜けた身体能力と卓越した技量を駆使したセネガルの弾けるようなプレーは、サッカーをするのが楽しくてしょうがないという純粋無垢な少年の心を映し出しているかのようだった。
何試合も見ているうちに、勝つための条件がぼんやりとわかってきた。
l 超人的とも言える華麗な個人技
l 強力なリーダーシップと鉄壁のチームワーク
l 強靭な体力と驚異的な集中力
l ずば抜けた直観力と計算に支えられた戦略と巧みな戦術
l 最後まで絶対に諦めないタフな精神力と自分への信頼。
勝ち残るチームは、例外なくその5つの要素を備え、絶妙にバランスさせていた。どんなに優秀な選手が揃っていても、チームとしてのグループ・ダイナミックスをかたちづくることができなければフランスやアルゼンチンのような強豪でも敗退する。これは勝ち残る企業の姿そのものではないか。とりわけベスト8から先に進むチームからは、何らかの形で優れた組織論を学ぶことができるはずだ。
しかしながら、私自身が今回のW杯から得た最大の収穫は、いくつかのテレビ番組を通してフランスという国に興味を擁き、好きになったことかもしれない。
一つは前回W杯で優勝したフランスについての番組だ。澄み切った目をした世界のスーパースター、ジダンがアルジェリアの出身であることは知っていたが、フランスの代表チームは、見た目にも種々雑多な人種で構成されている。アフリカに点在する旧宗主国の移民を積極的に受け入れ、その中で抜きん出た才能を持つ者は、肌の色や出身国に関係なく、フランス人として受け入れる寛容な文化とシステムがフランスにはあるからだ。
自国の文化が侵されるという理由で、多くのヨーロッパ諸国がアフリカ系移民を排斥しようとする中、当然のようにアフリカの子供を養子に迎え、肌の色の異なる子供たちが学校で机を並べ、才能があれば分け隔てなくチャンスを与えるフランスは、世界のどの国よりも愛と自由と人権を具現化している。そして、何の気負いもなく、アフリカの開発途上国にわたり、現地の人々と融和しながらサッカー指導に情熱を傾けるフランス人が何人もいることも、今回、知った。セネガルを率いるメツ監督も、そして日本代表を率いたトルシエ監督もその一人だ。
そのトルシエのドキュメンタリー番組もW杯前に放送された。ブルキナファソというアフリカの小さな国をアフリカのベスト4に導いたトルシエにとって、情熱を分ち合ったこの国は心のふるさとだ。2年前、日本代表が負けこみ、解任騒動が持ち上がったとき、トルシエはたまたま自分が育てた選手の引退試合に招聘された。温かく迎えてくれた第二の故郷の人々との交流は、傷ついたトルシエの心を癒し、消えかけていた情熱に再び火をつけた。ブルキナファソの人たちは、大人も子供も口をそろえて「トルシエは本当に素晴らしい監督だ。そして素晴らしい人間だ。だから僕等も日本を応援する。絶対日本にはがんばって欲しい」と力強く言い放つ。そこには、この国と人々を心から愛した人間トルシエがいた。そのトルシエがいう。「私はサッカー選手を育てているのではない。一緒に飯を食い、サッカーをするなかで、人と分ち合う喜びを知る『人間』を育てているのだ」と。私も同居人も、涙をぼろぼろ流しながらこの番組を見た。
トルシエの情熱の炎は、大きな人間愛に裏付けられたものだった。かつてこんなにも日本のために本気になって奮闘してくれた外国人がどれほどいたことか。日本代表発表の日、トルシエは「私がすべて責任を持つ」と言った。司令官としてのあの潔さは、深い信頼感からしか生まれ得ない。
トルシエが日本に与えてくれた大きな愛。その源泉に少しでも近づくために、遅まきながら、フランス語の勉強を始めようと思っている。
月刊「ラバーインダストリー」2002年5月号掲載 大人のための学校 2006/03/24 Fri 12:03
月刊「ラバーインダストリー」
2002年5月号掲載
連載第1回
大人のための学校
人生には、後から考えると「あれが決定的なターニング・ポイントだった」と思えることが、いくつかあるものだ。私の場合、大学4年の求職活動シーズンに、先輩のジャーナリストのAさんからもらったアドバイスがその一つだった。もしあの時、彼女の一言に出会わなければ、私の職業人生は今とはかなり違ったものになっていただろう。
私は中学時代にロック(後に好みがジャズに変わる)に目覚め、なぜかその頃から将来は絶対に音楽ライターになろうと決めていた。三つ子の魂なんとやら、高校時代にはレコード店や音楽喫茶に通い詰め、大学時代は授業もそっちのけで音楽関連のさまざまなバイトに精を出し、音楽ライターの夢に少しでも近づくため、自分なりに努力してきた。
大学4年になり周りが就職活動に動き始めても、私は自分の将来を思い描くことが出来ずにいた。家庭教師でもすれば、新米音楽ライターでも何とか食べていけるだろうぐらいのことしか考えていなかった。そんな私にAさんは言った。「会社に勤められるチャンスは人生にそうそうあるわけじゃない。まして大企業に就職するチャンスなんて今しかないのよ。日本の社会はなんだかんだいっても会社中心でまわっている。どんな会社でもいいから就職しなさい。そしてどんなにいやなことがあっても3年間はがんばりなさい。絶対に得ることがあるから。会社に勤めて世の中の仕組みを勉強してからフリーになっても遅くないじゃない」
尊敬するAさんの言葉は説得力があった。そうして大学の就職課に相談に行くと、その年から日本航空が障害者の雇用に力を入れ、また数年ぶりに大量採用を計画していることを告げられた。人事部の採用担当がたまたま大学の先輩だったこともあり、あれよあれよという間に就職が決まった。
整備士に英語を教える仕事、民営化を控えての社長直轄のCI(コーポレート・アイデンティティ)プロジェクト、客室乗務員のスケジュール作成、機内サービスとCS(顧客満足)企画と、エキサイティングな仕事に恵まれたこともあり、日本航空での13年はあっという間に過ぎた。
そんな折、早期優遇退職者制度の対象年齢が一気に引き下げられ、私にも資格ができた。会社に不満があったわけではないが、忘れていた音楽への情熱が蘇ってきた。私には人生に求めるものがあったはずだ、と。
1994年、私は日本航空を退職し、自分の翼で飛び始めた。音楽業界に人脈があったわけでも仕事のあてがあったわけでもなかった。翻訳会社を経営する大学の先輩が「翻訳でもやってみるか」と声をかけてくれたのは涙が出るほどありがたかった。友人が紹介してくれた専門誌は、下っ端の通訳の仕事を回してくれた。とはいえ、当時の私の英語力は、あまりにお粗末。しかし与えられたチャンスは大切にし、どんなものでも誠実に一つひとつこなした。取材には相手に不快感を与えないように、きちんとして出かけた。お世話になった人には礼をつくした。やがて仕事は芋づる式に増えて行き、音楽以外にもさまざまな分野の興味深い仕事が舞い込むようになり、締め切りに追われるようになった。
日本航空を辞めた当初、13年間のサラリーマン生活で世渡りできる武器を何ら身につけられなかったことに愕然とした。航空業界での知識や経験が、それ以外の世界で役立つことは、まったくといっていいほどなかった。「つぶしがきかない」とはこのことであった。現にフリーになってから「元JAL」という看板で回ってきた仕事は一つもなかった。私の武器は、熱意と誠意だけだった。
それでも好きなことを仕事にして、経済的に困窮することなく過すことが出来るようになるまで1年もかからなかったと思う。フリーランス生活を早く軌道に乗せることができたのは自分の実力だと最初は思っていたが、2年、3年経つうち、いかに自分が会社によって育てられていたかに思い当たり、そのありがたみがわかるようになってきた。
原稿の締め切り一つとっても、提出が遅れると困る人がいるのだということが頭に浮かぶ。フリーランスとはいえ、集団力学の一齣を担っていることに想像が及ぶなら、守らないわけにはいかない。誰かの紹介でいただいた仕事で失敗したなら、紹介者の評判を落とす。「社会人としての常識」が、仕事をする上で思いのほか力になっていることに思い至るようになったのはずいぶん時間がたってからだ。さらにサラリーマン生活は、社会人としての自分を育ててくれただけではなく、企画の立て方、交渉力といった広い視野で仕事を捉える訓練の場を知らず知らずのうちに授けてくれていた。
あの時、Aさんの言葉に出会わず、卒業と同時にプータロー生活を送っていたら、おそらく音楽業界の中で認められるライターになることも難しかったであろう。実力もないくせに生意気で、礼儀も知らない人間に仕事を回すほど世の中は甘くないことが、今ではよくわかるからだ。
会社でシニアになり、また今の仕事でアシスタントをときどきお願いした経験から、もう一つのことを学んだ。仕事が出来る人間は、使う側からは一発で見抜けるということだ。コピー一つ頼んだだけで、その人物がどれぐらい頭を使い、心を砕いて仕事をしているかがわかる。能力があると見栄を張ったところで、小さなつまらない仕事をないがしろにしている人間に、大きな仕事が回ってこないのはそのためだ。仕事には基本的に向き・不向きはない。どんな仕事にも気を抜かないゾというやる気と情熱があるかないかだけなのだ。実際、地味なセクションに配置され、やる気を失いかけていたときの上司の言葉はありがたかった。「自分に向いた場で能力を発揮することは簡単だ。日の当たらない場所に配置されたときこそ、その人の真の実力が試される。見ている人は、見ているのだよ」。
朝寝坊・昼寝ができる今の気楽な生活を捨てる気はないが、もう一度サラリーマンに戻ることが出来たら、以前よりは、もう少し傍を楽にする働き方が出来るのではないかと思う。そして会社という組織からもっと貪欲にいろんなことを学びたい。お金をいただきながら勉強させてくれる「大人のための学校」である会社ほど有難い存在はないのだから。
工藤由美
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